エヌの解放

40代独身女の適当な日常です。

立派な父でした。

実家に戻ってから1ヵ月以上が経ちました。

父の具合が悪くなったので帰ることになったわけですが、その父は私が実家に戻った翌日に入院し、そのまま病院で亡くなりました。間に合ったというべきなのかどうか、、、。私が実家に戻ることは父の希望でもあったので、少しは役に立つことができたのだと思いたいです。

父が亡くなってから一月余り。手続きに忙殺されております、、、。

とはいえ、仕事のある日は何もできないので、休みの日にまとめてやるんですが、仕事から帰るとあれやこれやと母から質問され、届いた書類に目を通し、どうするべきかを考え、、、という生活。遺族は悲しむ暇もないというのは本当ですね。父が亡くなったその瞬間から、悲しむ暇もなくすべてが動き出します。

病室で悲しむ暇もなく葬儀屋に連絡をし、遺体を運んでもらい、葬儀の打ち合わせに入ります。骨壺のデザインから棺のデザイン、祭壇のパターン、祭壇の花の色、遺影の額縁のデザイン、その額縁にかけるリボンの色、、、、。内心、「リボンの色なんてなんでもいいわ!!」と思いましたが、一つずつ確認して決めないと終わりません。結局、打ち合わせには2時間くらいかかりました。最初からそれくらいかかると言われていたんですが、「まさか」と思っていたら、本当に2時間だった、、、。花屋に注文しておいた枕花を受け取って帰り、枕元に供える枕団子を自分たちで作ります。枕団子の材料となるうるち米の粉は、葬儀屋さんが用意してくれます。それを家で作れ、と。帰宅後も悲しみに暮れる間もなく、せっせと団子づくりですよ。

家族葬だったので、後から家にお焼香に来てくれる人が絶えませんでした。その対応に追われつつ、葬儀の精算をし、ほどなくして四十九日の打ち合わせが始まり、その間もお焼香の来客は切れず。ぼちぼち事務的な手続きも始まります。年金、保険、税金、各種名義変更、等々。終わらない業務に追われているようで、今もって心安らぐ時がありません。

父はとてもしっかりした人で、自分の命が長くないことを悟り、各種の手続きをサクサクと進めてくれていました。株をやめ、ゴルフの会員をやめ、車を売り、車の保険を解約し。各種会員の類は全て退会していました。しかも、まめに通帳を記帳している人だったので、父が何をどう支払っていたのかが、一目瞭然でした。記帳がこんなに大事だったとは、、、。父のこれらの作業のおかげで、どれだけ我々が助かったか。最後になるであろう入院費の保険の支払いまで母に指示をしていました。支払いが済んだら領収書をこの封筒で送るんだよ、と。

お焼香に来たある男性が、父のことを「ダンディで、面白い人だった」と言っていて、家族でキョトンとしてしまいました。家で面白いことなんて一つも言ったことありません。いろいろな人の話を聞くにつれ、私の知らない父がいたのだな~と思うばかりでした。

父からのメールの最後に、ときどき「88」と入っていて、最初は「ん?」と思ったんですが、どうやら「パパ」よりという意味だったようで、面白いと言えばそれくらいしか思い当たりません(笑)。